昨年末、井上ひさし著「あくる朝の蝉」を読んだ。それは著者の自伝小説であるが、奥が深く、今もってその余韻に浸っている。
主人公は15歳ぐらいの少年で、彼の父親が亡くなり母親が実家と絶縁したために、弟と共に孤児院へ預けられている。彼は、夏休みに母に内緒で、母の実家の祖母へ自分たちを呼び寄せてくれるよう、手紙を出した。すると案の定、祖母は彼らを家へ呼び寄せてくれ、彼らに家庭を味わわせてくれた。このまましばらく暮らせれば良いな、と思った主人公は、思い切って祖母に、できれば自分たちを引き取ってもらいたい、とお願いする。祖母も彼らの孤児院生活を不憫に思い、願いを叶えてやりたいと、同居している息子、つまり彼らの叔父にそのことを相談するのだが、彼は受け入れなかった。彼は、父親が亡くなり学資が途絶えたために大学を中退し、渋々実家の家業を継いでかろうじて母を養っているので、絶縁している自分の姉の子供たち2人を引き取るなんて絶対にできない、と怒りを露わにしたのである。祖母と叔父とのこの会話を傍で聞いてしまった兄弟二人は、祖母の気持ちに配慮して孤児院へ帰る決心をする。あくる朝、彼らは大声で鳴いているエゾ蝉に出くわし、驚かして捕まえようか、と画策する。しかし彼らは思い返してそれを逃し、その鳴き声に紛れて、祖母に気づかれぬようにそっと孤児院へ帰っていく、という物語である。
孤児院は、子供たちにとって確かに不自由な場所のようだ。風呂は10分で上がらねばならないし、熱い金属の丼を3本の指でつままねばならないし、ご飯は常に盛りきりである。それに比べて、優しい祖母の家は確かに居心地が良い。しかしそこには、自分の姉への憎しみと強いられた自己犠牲への嫌悪感に支配された叔父が居る。つまり祖母の家は、一見良さそうに見えるが、大人の利己心や憎しみの渦巻く世俗であり、弱い立場の子供たちを受け入れる余地はない。こうして二人の兄弟は、世から締め出された不幸な子供たちのように思われる。
しかし彼らは、祖母の愛とその限界を通して、孤児院こそ彼らの帰るべき場所であることを悟った。もし彼らが祖母を思いやって自発的に孤児院に帰り、今度こそは自らのような境遇の子供たちのために積極的に孤児院に留まり、心から彼らを愛するならば、彼らこそ神の子供たちである。孤児院での不自由な暮らしは、隣人愛の実践だ。一人でも多くの孤児を受け入れるために、喜んで不自由な暮らしに甘んじる者にとっては、孤児院が神の国となり得る。もしかしたら孤児院への彼らの旅立ちを促したエゾ蝉は、イエス・キリストを表現しているのかも知れない。
イエス・キリストは「神の国とは見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国とはあなたがたの間にあるのだ」と言われた。自分の不自由さを隣人愛の実践と受け入れる人は幸いである。その人の内側には、全く別の価値観が宿って居る。すると孤児院という神の国が分る。惠泉塾もまた、そのような所である。神は、世から締め出された人たちを恵泉塾に家族として受け入れ、彼らを忍耐強く神の子供へと作り変えてくださる。失われた人を神の下に連れ帰るという仕事を、神と共に成し得るならば、この世の不自由さに甘んじるとも大きな意義があるというものだ。私は今、こうしたイエス・キリストと足並みを揃える生き方を、喜びをもって受け入れている。 (参考:「こころの話」松田哲夫編,あすなろ書房)
(2018年1月1日発行「熊野だよりNo.15」より抜粋)