『朝日新聞』朝刊に1976年11月11日から1979年1月24日まで連載
解説
司馬遼太郎「胡蝶の夢」とは、幕末から明治中期、即ち1830年頃から1910年頃までの約80年を取り上げた医学史で、単行本4分冊からなる長編である。主人公は松本良順である。医者の子として生まれ、当時の西洋医学である蘭方医師として活躍した。準主人公の一人は島倉伊之助。驚異的な記憶力で蘭独英の三カ国語からギリシャ語、ラテン語、清国語をも習得し、通訳や医学書の翻訳に多大な功績を残した。準主人公のもう一人は関寛斎。無料診療の先駆けとなった人物である。彼らは、オランダ人の軍医ポンペに指導を受けた弟子同士であり、身分や立場の違いを越えて互いの個性を認め合い、相手を生かそうと努力してこの激動の時代を生き抜いた。
松本良順は「和魂洋才」の人であった。当時日本の医学は専ら漢方であり、また厳格な身分制社会の下で、医師は定められた身分の病人のみを診察した。そこで良順は、ポンぺから学んだ西欧の医学教育と平等思想を根付かせるために、独力で医学伝習所を開講し、庶民に門戸の開かれた附属病院を建てる。また彼は当時「被差別民」と呼ばれた人達に深く同情し、彼らと人格的な交流を持った。明治維新後、功績が認められると彼は男爵となり、七十六歳迄生きた。つまり身分制度を温存した世俗社会に、成功者として収まっていったのである。
準主人公である島倉伊之助は「洋才」の人であった。彼は語学力を重宝がられる反面、特異な性格の故に世俗社会に受け入れられなかった。しかし著者はそんな彼に同情共感し、淫蕩と呼ばれる彼の闇部分でさえ、彼と情を交わせたのは良順と寛斎以外女性たちだけだったことをほのめかしている。残念ながら乱れた生活がたたり四十才の若さで夭逝した。
もう一人の準主人公である関寛斎は「洋魂」の人であった。貧農出身でありながら、維新後士族となるが、後に自ら望んで「平民」となった。北海道へ移住して農地を開墾するかたわら、アイヌや農民に無料診療することが多く、薬を与えなかったという。また最晩年に徳富蘆花の良き友となって「みみずのたはごと」に登場する。しかし彼は、札幌農学校出身でアメリカ式経営主義を身に付けた息子と鋭く対立し、八三歳で自死するに至った。寛斎は時代を超越した人であった。
司馬遼太郎は、膨大な資料を駆使して彼等の偉業の数々を辿り記してきたけれども、最後に「社会という巨大な、容易に動きようもない無名の生命体の上にとまったかすかな胡蝶(蠅であってもよい)にかれらはすぎないのではないかとおもえてきたりもする」と結んでいる。しかし日本の医学における万民救済への道はこうして開かれたのである。
胡蝶の夢(一)~(四) 合本版(新潮文庫)
https://www.shinchosha.co.jp/ebook/E020861
画像引用元:
松本良順(松本順)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E9%A0%86
島倉伊之助(司馬凌海)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6397